蝉日記。 躓いた二人。四十六!。

駅の階段に十時前から僕は居た。そんなに人通りも無い。夜空には星が見える。光ってる。そう言えば遠く夜空に光り輝いているあの星だって、近づいてみればただの土の塊りだって言ってたな、決めつけてたな、僕は。そうやって何でも泥だって決めつけて生きてきたんだなって考えた。

 でもそんな僕が初めて泥だって決めつけないでいた存在と暮らしがあったのになとも思った。

 一台の自転車が近づいて来た。太った男が乗っている。階段の前で止まる。'やはり来てくれたか、こいつだろうな。来てくれたって事はこいつもまだ、ましな男だ'なんて考えた。

 冴えない男だった。良い所、探せない程。

 「来たんだな。」僕が声をかけても階段の下から返事もしない。自転車から降りようともしないで僕を見上げてる。「近くに座れよ、話そか。」言ってやったのにまだ僕を無言で見上げてる。僕は仕方なく言った。

 「お前、何だって嫌がらせばかりしてくるんだ。言いたい事があるならはっきり言えよ。俺にだけの攻撃ならまだしも、あいつにはやめてやってくれよ。言いたい事あるなら俺にだけ言えよ。」

 「君は、あの子を愛してるのか、、、本当に、、、。」初めて聞いたこいつの声。

 「好きだよ。愛してるよ。好きで愛してるから一緒に暮らしてんだよ。お前も好きなのか、だけど俺が幸せにするから、必ずするから、もうどっか行っちゃえよ。嫌がらせもやめろよ。」

 「僕は君に負けないくらいあの子が好きなんだ。愛してる。君はあの子の過去も知ってるのか。知った上で愛せてるのか。汚れた事も汚れた過去も、風俗嬢してて、何人も何人もの男におもちゃにされてきた事も全て飲み込んで愛せるのか。僕はできるんだ。」

 「昔の事は知ってるよ。知った上で暮らしてるよ。でもお前、間違ってるよ。あいつは汚れて無い。そんなこと、汚れたって言うお前、もう消えちゃえよ。どっか行って二度と嫌がらせもするな、本当にあいつの事愛してるなら。」 

 「うるさいよ。君は他人に蹴られた事もいじめられた事も無いだろ。僕とあの子は同じ痛みを知っているんだ。共通の悲しみを持ってんだ。今までの人生、何の痛みも泣くことも知らずに生きてきたお前に何であの子を幸せにできる、あの子の傷を何で知ってやれる、あの子は僕の初めての女の子だ。お前にはわたさない。」

 ゆっくりと見えた。本当は素早い動きだったはずなのに止まっているかの様に一つ一つの動作がゆっくりと見えた。冴えない男は、慣れない手つきで刃物を取り出すと僕に向かって来た。僕は冷静だった。恐怖も感じない。ただ乾いた気持ちになった。冴えない男の、多分、人生で初めて他人を傷つけようとした渾身の一撃で少し腕を傷つけられ血を流した。その少しだけ流れた血が、無力な冴えない男の一生懸命で哀しく乾いた気持ちになる。

 冴えない男のその腕をねじり上げ、手から刃物を取り上げた。そして、何で、そんな行動をしたのか自分でも解らない。説明できない。刺してしまっていた。

 あんなに嫌っていた鉄格子、不思議だ、懐かしいにおいがした。警察署での取り調べ、僕はもう面倒くさくて、ただ、'刺した'としか供述しなかった。動機とかそんなの、自分でも説明できないよ、ただ「もう何も聞くな。刺した事は認める。刑務所でもどこへでも行くよ。だから女の子に連絡してくれ、女の子を呼んでくれ。」と繰り返していた。喚いていた。

 二十二日間の取り調べが終わり、傷害で起訴となり、一応、刺した事は認めているからか接見禁止とか言うのも取れて外の者と面会とかができる様になった。僕は女の子を呼んでくれ、連絡してくれと繰り返していた。女の子は、親とか面会に来た人に頼んでいるのに誰も連絡が取れないと言う。携帯電話も通じず家にも居ないという。僕の所に面会も一度も来ないし手紙も無い。僕は訳が解らなかった。見捨てられたのかと女の子を恨んだりもした。女の子の事以外、鉄格子の中、全ての事に興味が無かった。あの冴えない男が命は助かったとか、これからどうなって何年くらい刑務所行くんだろうとか、裁判の事とかどうでもよかった。女の子と会いたくて、ただ、それだけだった。